意識は主観であると同時に客観である

 意識=主観ではない。単純に隣の人と向き合うとき、あなたの意識は同時に客観である。しかし意識=主観と言われるかぎり、意識は主観の殻に閉じこもってしまう。主観は意識という場所を開くか閉じるかしかできない。場所を尋ねたり去ることができない。だから主観は場所を広げてゆくか狭めてゆくかしかない。しかしそうすれば、場所はいずれ枯渇し、せめぎ合い、取り合いになる。経済の始まりである。客観的”存在”に重きを置...

コギトの場所

これまで重ねてきた省察をぎゅっと圧縮して、体系的に記述しました。伝わりにくいかと思われますが、デカルトの第一原理批判という文脈に乗せて公開します。 「私は考える、ゆえに私は存在する」というデカルトの第一原理は、自明なものだろうか。これに対し、「考えるためには場所がいる」という着想から、デカルトを告発するのが、ここでの趣旨となる。・現前と表象 コギト(考える私)は場所を前提としている。そのコギトを根...

世界性に根ざした決定論の解明

 決定論は世界性にもとづいて、起こるべくして起こる理念である。世界とは何か。「世界情勢を追う」という形で用いられる一方で、「あの人は自分の世界を持っている」という形でも語られる。前者は宇宙の特異点としての地球上といったニュアンスで、後者はその人独自の価値観といったニュアンスで用いられている。いずれにせよ、我々は住まう場所を世界と呼ぶ。世界とは何か、という問いに対して、それを場所の様態として捉え...

暴力について

 暴力はその起源の古さにもかかわらず、きわめて現代的なトピックである。このことはひとえに、現代において他者問題が先鋭化されたことと無縁ではない。そもそも現代における他者問題は、大戦の反省に大きく影響を受けている。これまでの近代的自我を支えてきた形而上学的理念は崩壊し、主体の亡霊は新たな構造を求めてさまよっている。主体の寄る辺なさは隣人の暴力に晒される不安を際立たせ、実存という主題が声高に叫ばれるよ...

表象および現前について

表象の役割   わたしたちはふつう、なにかを目のまえにしたとき、それについて認識することからはじめる。そののちに、それについてなにごとかを考える。 認識できるということは、そのなにかが「表象」として与えられているということである。そのため、その表象は認識のきっかけとなり、さらには思考のきっかけともなる。 ここでもう一歩、踏みこんで考えてみれば、そもそもなにかについて考えることができると...