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世界性に根ざした決定論の解明

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決定論は世界性にもとづいて、
起こるべくして起こる理念である。

世界とは何か。

「世界情勢を追う」という形で用いられる一方で、
「あの人は自分の世界を持っている」という形でも語られる。

前者は宇宙の特異点としての地球上といったニュアンスで、
後者はその人独自の価値観といったニュアンスで用いられている。

いずれにせよ、我々は住まう場所を世界と呼ぶ。

世界とは何か、という問いに対して、
それを場所の様態として捉え、
その生成過程をたどることから回答を試みる。


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存在は無ではありえない。
それはどこにも流れ出ることなく、
ゆえに場所を欠いてはさし迫るばかりである。

それは類比的に肉として語りうる。

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肉もまた無ではありえない。
それは感性の基層として根底に横たわるものである。
皮膚で覆われることがなければ、あらゆる刺激はさし迫るばかりである。

我々は見ると同時に触れるのであり、
知覚の根底には触覚が存している。

知覚はすでに場所を構成する要素であるが、
その根底には依然として
始源の領野すなわち触覚が横たわっている。

知覚においては
知覚する者と知覚される者の二項対立が形成されるが、
触覚においては、
触れる者と触れられる者の間には、厳密には区別が成り立たない。

それは媒介の欠如、直接性ゆえの接触であり、
作用と対象へと分裂する手前の基層として
全きテクスチュア(肌理)である。

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テクスチュアは対象として構成されるのではなく味わわれる。
舌の上に乗ったチョコは
「甘い」と知覚される以前に、舌触りとして味わわれる。
手に触れる絹は
「すべすべ」と知覚される以前に、手触りとして味わわれる。

この味わいのパースペクティブから形成される理念のごときものが生である。

あらゆる味わいは生と不可分である。
喜びは味わわれる。苦しみすら味わわれる。
生は本能による自己保存欲求として原理へと形骸化される以前に、
それ自体で楽しまれ、悲しまれ、喜ばれ、苦しまれる。
つまりは生きられるのである。

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あたかも理念が思考を息づかせるように、
この味わう欲求が運動を息づかせる。
ちょっと木陰に腰を下ろす、そのささやかな運動すら、
木陰を味わうことに動機づけられて起こる。

しかしあらゆる味わいは肉として、接触として、
存在のごときさし迫りの性格を免れない。
それからスペースを取るようにして、表象のごとく知覚が生じる。

知覚において対象が構成され、それによってあらゆる味わいは一般化され、
現在の一部をなし、日常的な時間に組み込まれる。
その時点で木陰の「涼しさ」は一回限りのものではなく、
条件を整えれば再び現前させることができるような再現性を帯びるようになる。
それは過去や未来へと変容し、想起や予期において呼び戻すこともできる。

こうして味わいを十全に覆い尽くすことで、
完全に肉と対応した知覚が価値と言われる。

価値は全き知覚として、
もはや味わいの残余すら残すことなく、一般化されている。
それゆえに、その知覚を一定のコンテクストに乗せさえすれば、
それに対応する肉の味わいが再び起こることになる。

味わいそのものに動機づけられ運動がおこるのだから、
その点で価値はつねに使用可能な意味のことである。

この価値は、生によって息を吹き込まれることで、
自ずとコンテクストに沿って秩序を形成するようになる。
これはいわゆる配置である。

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仕事場の道具は、
それぞれの価値がコンテクストに従って配置されることで、
独特の構造を持つようになる。

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ここに至ってはじめて、世界という住まう場所が現れる。
価値観なるものは厳密には価値の配置である。
ゆえに世界は価値観と同一視される。

ただしここで注意すべきは、
こうした配置によって形成される構造が空間的だということである。

空間における落書きは一瞥で全容を把握できる。
かつ線を足すことで拡張できる。
そのようにして構造もまた一瞥で看取され、
かつ拡張可能なものとして扱われる。

つまり世界は構造を有するがゆえに、
一瞥で看取され、かつ拡張可能なものとして現れる。

言いかえれば、味わいの場は拡張可能であることになる。

この世界の拡張性によって、
場所に出来する主体は決定論という理念を思い描く。
すなわち存在の全き構造化を思い描くのである。

一切は想起可能で予期可能ゆえに配置可能で秩序づけ可能である。
こうして決定論が生起する。
つまり決定論は世界性に根ざしているのである。

・・・

補足。

世界の拡張性の帰結は、
味わいによって駆り立てられる生に動機づけられた、
場所の拡張欲求である。

生そのものが本能という名の起源において構造化されることで、
場所の拡張そのものが正当化され、場所の奪い合いが始まる。
それによって価値の価値として場所自体が価値を持つようになる。

競争原理の始まりであり、エコノミーの始まりである。

ただし、これは場所の一側面を極度に推し進めたに過ぎない。
場所にはもう一つ、社会性というパースペクティブが存する。
社会性においては世界の拡張性とは真逆の動性が存する。

これらはあたかも男性的な世界性、女性的な社会性と言いうるように、
根本的な両相を指している。

決定論における自由の問題も、
社会性によって解決の糸口が見出されるだろう。
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