コギトの場所

これまで重ねてきた省察をぎゅっと圧縮して、
体系的に記述しました。
伝わりにくいかと思われますが、
デカルトの第一原理批判という文脈に乗せて公開します。

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 「私は考える、ゆえに私は存在する」というデカルトの第一原理は、自明なものだろうか。これに対し、「考えるためには場所がいる」という着想から、デカルトを告発するのが、ここでの趣旨となる。


・現前と表象


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 コギト(考える私)は場所を前提としている。そのコギトを根拠に置くことで、存在はすでに場所に出来するものとみなされる。しかし、逆である。むしろ存在から場所が出来するのであり、そこではじめて、コギトが可能となるのである。以下、その過程を描く。

 まず存在を描くとして、それには気配という場面が適している。気配において、何かは痕跡のもとで、際立ってさし迫りつつ、一方で何かはすでに退いている。その何かの輪郭はおぼろげなままである。このとき存在は、存在者としての具体的な形をはみ出して、自らを晒している。ここで、存在の内実が垣間見える。存在はさし迫りつつ退くのである。
 このさし迫りつつ退くという奇妙な動性は、持続の如く、解きほぐしえない一つの動性である。しかしあえてここで、さし迫りと退きに分離することで、存在を語りうるようにする。さし迫りとは、際立って居合わせることであり、その意味で現前という語が適している。一方で退きは、つねに痕跡を残してしかありえず、その痕跡と退きを一体とみなせば、表象という語が適している。存在の動性を現前と表象に分離することで、はじめて場所の原的状態が語りうるようになる。


・理念と意味


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 気配において、表象はなお、現前と十全に対応することがない。つまりその気配の何かは、十分に退くことなく、依然としてさし迫っている。ゆえにまだ、場所は十全に出来しえない。しかしこのときその何かは、表象によって垣間見られることになる。この垣間見えが、それを十全に解明しようとする働きを息づかせることになる。この息吹を与える動性が理念と呼ばれる。つまり理念は実体ではなく活動性である。
 この理念の息吹を与える動性によって、表象は自らの拡張を志向することになる。表象はコンテクストに乗ることで自らを拡張し、現前と十全に対応しようとする。それによって、現前と十全に対応した表象が意味と呼ばれる。したがって意味は現前の全き代理であり、意味において現前は一般化され、意味がコンテクストに乗りさえすれば、いつでも現前は呼び起こされることになる。ここにおいて場所は出来するが、それはまだ保持されていない。


・ 歴史と起源


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 想起や予期は意味において可能となる。意味が一定のコンテクストに乗ることで、現前は想起され予期される。
 意味はコンテクストを頼りに自ら他の意味と結合し、それによって歴史が創設される。歴史は起源を指し示すことで、同一性を保証し、そこではじめて場所が保持されるに至る。
 この保持された場所を実体化したものが主体と呼ばれる。主体はつねに作用の主体である。ゆえに場所を占めては行き過ぎる多様なものは、思考として、主体の作用の如く捉えられる。
 以上のことから、コギトの内実は場所であり、場所が存在の根拠なのではなく、むしろ存在から場所が出来することになる。
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Category: 研究
Published on: Fri,  01 2017 13:26
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