カントを冒す?

d0151247_22263774.jpg 

『純粋理性批判』 第一版序文 第一文


「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である」

 身近な例に引き寄せれば、上記の引用は何を語っているのだろうか。これはごく平凡な、日常的な、それでいて<慣習>的な場面。……すなわち「顔(visage)」。他者は何であるか、他人は何であるか。「おまえ、誰やねん?」、「きょうからおまえは俺の部下だ!」、「おまえは生きる価値がない」。……「おまえは”何々”だ!」。他者は何であるか、他人は何であるか。この凄まじき侮辱、命令、「顔」ならざる顔に向けられた問い。エクリチュールという文脈を外れた突発的な「孤島」は、すでにその形態のうちに、この「何?」という侮辱的な問いを孕んでいる。ただ一つ、『純粋理性批判』を除いて。
 この未曾有の第一文は、認識論ではない、倫理でもない、美学でもない。それは”何”なのか。もちろん答えるわけにはいかない。その問いへの回答はすべて、文脈を断ち切る侮辱そのものだからだ。しかしそもそも、この『純理』の「顔(ファサード)」を踏みにじることは、できるのだろうか。前置き(Vor - stellung)は、これから始まる「何?」への回答の一切を文脈に乗せる、エクリチュールにおける唯一の(?)的な文である。他の一切は、突き詰めれば暴力である。この、カント自身が与える表象(Vor - stellung)を他に、暴力を免れる前置き(Vor - stellung)などありえるのだろうか。

・・・

 日本語訳で読むということ。それはまだ仏教的素養を備えていた先人の驚くべき翻訳、しかも先人が意識して残した痕跡か、あるいは無意識の痕跡か、それは定かでなくとも、その痕跡を辿るということ。文明をまたぐ翻訳の恐るべき跳躍。言語は<歴史‐配置‐慣習>の調和において、一切が教えと化す。それはむしろ、言語でなくともよいのではないか。あたかも身振りが表情を伴うように。沈黙が何かを語るように。

・・・

この凄まじく暴力的な文章……
スポンサーサイト
Category: 未分類
Published on: Sat,  09 2017 22:11
  • Comment: 0
  • Trackback: closed

0 Comments

Post a comment